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미야자와 켄지(宮澤賢治)와 한용운의 시 비교연구 : 주체의 분열과 소멸, 복권을 중심으로 - 원문보기
A Comparative Study on Miyazawa kenji and Han Yong-Un′s poet

  • 저자

    심종숙

  • 학위수여기관

    한국외국어대학교 대학원

  • 학위구분

    국내박사

  • 학과

    비교문학

  • 지도교수

    최재철

  • 발행년도

    2005

  • 총페이지

    [2], 251 p.

  • 키워드

  • 언어

    kor

  • 원문 URL

    http://www.riss.kr/link?id=T10079336&outLink=K  

  • 초록

    本究は、宮澤賢治の『春と修羅』第一集と韓龍雲の『ニムの沈默』を中心に主體の苦惱と分裂、それを超克する方法としての自己否定と自己犧牲が生じる主體の消滅過程、そして新しい主體が生成される主體の復權に力点をおいた。このため、D.DurisinとAlfred Owen Aldrigeの比較文學の硏究方法により、二者の詩に表われた主題意識を比較してみた。また、精神分析理論のラカンとガタリの主體を取り入れ、ラカンの理論が適用不可能な部分は佛敎の無我と同體異體說等で補完した。ラカンの主體は象徵世界で他者と合一不可能な主體であるため主體の分裂過程に導入し、自己否定と自己犧牲の過程はガタリの「一貫性のない主體」、すなわち脫走する主體としての槪念に從った。この部分ではラカンの系列繰り返しは絶斷されるためである。 第一章では、主體の分裂を、1)分裂意識 2)分裂の表象 3)分裂の實相 4)分裂の結果の四つに分けて考察した。 1)分裂意識では、とし子とニム は主體の欲望の象である。ここで重要なのは主體が他者の不在による欠如のために欲望することになる点である。またとし子とニムが他者として主體の內に存在する他者性の意味を持つ場合、主體には失われた自己の正體性になる。賢治の詩では、とし子が天人に表現されるのは<まこと>に至ろうとする主體の念願をとし子を通して表したからである。また、賢治はとし子を天人に設定したからこそとし子の不在による悲しみの下降的舒情を上昇的に導いている。韓の詩でもニムは と合一すべき對象として超越的存在である。しかし、ニムとの離別という恐怖の極限は主體と他者が持つ距離であり、このような分離は主體が主體の中に存在する自己である他者を通して見られる。2)分裂の表象では と を中心にその象徵性を明らかにした。『春と修羅』に表われた はまことの言葉の不在による內面義識の苦惱に起因し、「靑森挽歌」で水のイメ-ジである淚のイメ-ジが水に變化して修羅の內面空間は水で滿たされる。それは、賢治の病んでいる內面が癒され再生される契機となる。韓の詩で淚は と に代表され、鑛物のイメ-ジと水のイメ-ジの結合は水のイメ-ジの否定的な側面である淚の柔軟性が强さに導かれ、逆說的な價値を獲得することになる。 はニムとの再會-愛の完成(すなわち、自我の完成)-を指向する詩的話者の苦惱の象徵である。 は詩的話者の透明で强引な義識の結晶體を象徵している。3)分裂の實相でキ-ワ-ドは心である。「無聲慟哭」では、 、「一つになって下さい」に表われる心の疎通は目という視線の問題とともにニムと私の關係に距離があることが分かった。「無聲慟哭」で と の、目を通した疎通の決裂は主體が二つの心を見つめたからである。すなわち、 の關係と の關係の二重分裂は作品の中でとし子という他者との向かい合いができない原因となった。韓の詩「どこへでも」の「君はおれを見るか」と責めるのは詩的話者の の目が閉じられた狀態、すなわち、ニムと私の向かい合いが不可能なことを意味している。4)分裂の結果で主體の苦痛は と で表現される。賢治の詩で は、とし子が死を迎えるという苦痛と生きているわたくしの自責の念を意味している。韓の詩「むしろ」は詩的話者の過ちによって沈默で私を苛むニムのため、主體の苦痛は に刺されるのと同樣である。ここで重要なのは主體のもの足りなさが他者によって投影されている点である。主體の分裂の原因は主體のもの足りなさに直面した時に生じる危機感であり、これは主體が自ら他者と化して となる時に生じる。この場合、主體は存在するというより、他者によって所有されるのである。 第二章では、主體の消滅を、1)消滅意識 2)消滅の表象 3)消滅の實相 4)消滅の結果の四つに分けた。この章で重要なのは佛敎思想の中心槪念であるニルバナである。本稿では、これを主體の消滅として扱うことにした。1)消滅意識では、自己否定と自己犧牲を中心に考察した。これはタゴ-ルのいう自我の利己主義の限界を超越しようとする主體の積極的な意志から生じる。賢治の詩で自己否定は肯定的な修羅義識から生じたもので、自己の內面の物足りなさを意味する に表現されている。このような自己否定の精神は とわたくしの中の私によって批判される。韓の詩で、自己否定と自己犧牲は「渡り舟と行人」と「服從」に明らかに表現されている。前者では、 の に對する犧牲は、主體のニムと合一するための自己犧牲である。それはタゴ-ルのいう大きな愛のために主體によって選ばれた行動樣式である。後者では、詩的話者はニムに對する徹底的な服從によって解脫、すなわち自我放棄を成し遂げる。これも韓の詩では、前者と同じ行動樣式である。2)消滅の表象はそれぞれ と という形で表われている。賢治の詩で主體の自己否定と自己犧牲が身體に表現された場合は梵身、とし子のような德性を志向する場合、とし子は詩的話者の分身として表現されている。また、肯定的な修羅と否定的な修羅が分裂して對立する內面義識が爆發する場合は解體志向となっている。韓の詩では、 と自由刑として表現されている。ニムの命令ならば まで脫ごうとする主體の積極的な意志は死さえも覺悟する態度から生じる。二人の詩人は消滅の表象を十字架に喩えることによってキリスト敎的なイメ-ジを打ち出している。これは宗敎的眞理の普遍性に基づきながら、彼らの文學的土壤を豊かにしている。「オホ-ツク挽歌」の十字架と韓の詩、「葡萄酒」は同じ十字架のイメ-ジを使用していることが分かる。3)消滅の實相として夜だかの飛翔と渡り舟を取り上げた。夜だかは賢治の童話で存在の物足りなさを表象する鳥である。これは白い鳥と一連の鳥が描かれる挽歌の延長線上にある。とし子が鳥に喩えられるのと、夜だかが天上の世界へ飛翔するのは相通じるので鳥のア-キタイプに通じている。韓の詩で渡り舟は自己犧牲を象徵し、ニルバナに至る宗敎的苦行である。そして船は佛敎思想では彼岸へ至る媒介物である。これは人間世界と天上を繫ぐ鳥と同じ役割を果たしている。渡り舟の自己犧牲の極致はニルバナ、無我である。無我はベルテの である。ニムとの再會は完全な<空>によって實現される。4)消滅の結果では天上志向と主體の死を取り上げた。夜だかの死と「銀河鐵道の夜」の靑年の死は共に天を志向する。前者は自己救濟のための死として小乘を越えたものであり、後者は自己犧牲で他人を救濟する利他性の死であるという相違点がある。後者は大乘佛敎の實踐行として描かれたと考えられる。韓の詩「おいで下さい」では<死の愛>は万能、無限、無窮である。これは自己否定と自己犧牲を通して詩的話者のニムに對する獻身の結果である。『ニムの沈默』は離別の痛み、淚、待つことの悲嘆が描かれている反面、それを超克しようとする意志の象徵である<黃金の刃>と<鋼鐵の楯>のような二つの情調が交差している。韓の詩における死はニムと再會するための主體の必然的な生の形式であった。 第三章では、主體の復權を、1)復權意識 2)復權の表象 3)復權の實相 4)復權の結果に分けて考察した。 1)復權意識では不一不二とニムとの合一を中心に考察した。不一不二はわたくし-とし子(不二)から (一)になる二つが一つになる世界を意味している。この場合、主體のわたしが否定されてみんなになることによって新しい主體が生成される。韓の詩で復權はニムとの合一によって生じる。全編を通して、ニムの沈默は別れたニムと再會するのは、時間の連續性の中で待たされる主體を忘れる過程である。完全な忘却から主體は自ら解脫して新しい主體を創出する。ニムとの合一という命題は分離された主體が消滅される時に可能であり、それは時間の中で持續的である。この場合主體は、待つこととの內的鬪爭に直面する必然性に쇄されるのである。 2)復權の表象では救援の鳥と黃金の象徵性を中心に考察した。賢治の詩の鳥は 救援を表象していた。とし子の死による喪失感とそれを克服できないという苦痛は主體を深淵に墜落させた。墜落の想像力は主體が精神的な責任を負うべき世界である。しかし、この想像力は上昇し大きくなろうとする夢に過ぎなかった。「靑森挽歌」の冒頭に表われた墜落はとし子の中有の天人と轉生の鳥を通して上昇している。空の靑は純潔と高貴、透明な意志の象徵として佛敎の中有のイメ-ジとともに賢治の詩のイメ-ジを成している。鳥は主體にとって脫出口でありながらも自由と救援を意味している。韓の詩では、黃金は永遠の價値を表象している。 はニムの沈默に表現された比喩語の中で中樞的位置を占めている。その理由は黃金の花が を修飾していて、『ニムの沈默』の詩が永遠の生命を象徵する昔の誓いを守るための過程で生まれたからである。「花爭い」でニムがわたしに負けることは詩的話者がニムとの長い離別の間、苦難を克服してニムと再會することによってニムに勝つという意味である。ニムとわたしの間のゲ-ムである「花爭い」は疎通手段であり、主體はこれを通してニムとの距離を縮めている。3)復權の實相では の克服と菩薩思想を中心にタゴ-ルの思想と照らし合わせて考察した。賢治の詩で詩的話者がとし子の死後の世界を絶えることなく求めるのは執着にすぎなかった。全體のための愛に移行することによってとし子という個的存在を克服した。韓は菩薩思想をもって奴隷的生を營む植民地朝鮮の佛敎徒大衆と朝鮮民衆が主體として復權することを目指し、獨立運動と佛敎改革運動に一生涯を捧げた。4)復權の結果は の獲得と平等思想を中心に考察した。賢治の「樺太鐵道」は、大乘精神の信念を謳った詩である。賢治の「農民芸術槪論綱要」の冒頭での という主張はあくまでも個人が中心となって全體を志向するのではなく、個人と全體が一つになった世界を念頭に置いた表現であろう。恩田逸夫の個人中心論はそういった面で限界があると考えられる。『春と修羅』の序で言及している という部分については、梅原猛と栗原敦が天台敎學の一念三千觀に基づいて解明しており、特に栗原は、宇宙(世界、全體性)とわたし(個)の本源的一致(一體性)を證明するための思想的土台として心象の槪念形成に寄?しているとしている。またこれは韓の の槪念と一致しているところである。大乘佛敎は差別を越えた世界の實現をその目標としており、全ての人が究竟の幸福に至る道であるとしている。これは賢治の宇宙意志の實現に通じている。韓は「朝鮮佛敎維新論」で佛敎の理念を平等主義と求世主義に分けて說明している。ここで、平等主義は不平等に反する主義であり、不平等な見地とは、事物、現象が佛敎の諸法によって制限されることである。そして、平等な見地とは、空間と時間を超越した拘束されることのない自由な眞理であると定義している。韓において絶對的な自由は絶對的平等を意味しており、自由と平等の關係は同一である。彼の平等主義はニムとわたしの內面的、又は精神的な面だけ求められるものでなく、社會的な不平等に對して鬪爭的に對處していった。ニムとの完全な合一は自由で平等な境地の實現で、祖國の獨立はコロニアリズムからの平等主義を實現することであった。この二人の詩人の實踐した社會運動は、近代と言う矛盾な時代を超克していく方法でおり、その精神のMotoには大乘佛敎が根づよく位置している。衆生と民衆のための彼らの鬪爭は菩薩道の犧牲精神に基づいている。また、彼らの鬪爭は民衆が主體としての權利を取り淚すところに重点があったと考えられる。ここで重要なのは、彼らの犧牲は自發的で、より大きくて完全な愛の世界を求めるための自己放棄であった点である。タゴ-ルの言う通り、人間が肉のように賣られる時代の近代は否定されるべき時代であり、賢治と韓龍雲が主張する新しい時代とは人間が眞の主體として位置づけられる時代であった。


    The 1920s was a period of historical change and an evil influence of modernism in Korea and Japan, and Miyazawa Kenji and Han Young-Un were poets who lived in that period. This study examines the processes of the agony and division of the subject, the self-effacement of the subject as represented as self-denial and self-sacrifice, and the creation of a new subject in Miyazawa Kenji's Spring and Asura and Han Young-Un's Your Silence. For the analysis of the study, I provide the theoretical framework of the comparative study of themes among D. Durisin's and Alfred owen Aldridge's methodologies of comparative literature. For the main part of the thesis, I introduce the concepts of the subject of Jacques Lacan and Felix Guattari and supplement the limitations of Lacanian theory with the Buddhist concepts of 'selflessness' and 'nirvana'. I use Lacan's concept of the subject as one incapable of accomplishing the oneness of the other in the Symbolic in order to explain the process of the division of the subject; and I adopt Guattari's concept of 'the subject of inconsistency', that is, the escaping subject so as to illustrate the process of self-denial and self-sacrifice. In chapter 1 I examine the structure and meaning of the sequence comprising a central axis of metaphor. Miyazawa Kenji describes his sister Toshiko - both the object of his desire and the other - as a Taoist Immortal or a heavenly being, who is the object towards which the subject heads. Han Young-Un's 'You' takes the shapes of the life of the universe, Buddha, or the Absolute, who is also the object of the subject Han's desire as the other. The subject's separation with the other leads to its division, which is expressed in the poetic dictions of 'two minds' in the case of Kenji and of 'you' and 'I' in the case of Han. The subject in this symbolic order is a subject as seen, extending beyond a watching subject in a mirror stage. Kenji expresses the real state of the subject's division as 'Asura's tears' and Han describes it as 'tears like pearls'. And Kenji uses the word 'thorns of a pine tree' and Han adopts the word 'ice needles' in order to show the subject's sufferings derived from its division. In chapter 2 I deal with the processes of the subject's effacement as self-denial and self-sacrifice in Kenji's and Han's poems. Self-denial derives from the lack of the subject in comparison with the absolute being or truth. For Kenji, it is expressed in the word 'ugliness' and it is alluded through the appearance of a jungle nightjar. The 'ugliness' originates from the lack of existence, not from a sinful impediment: it arises from a lack rather than from the consciousness of original sin such as the evil of existence. The self-denial is featured as giving up a self in Han's poem "Obedience", which is a way of attempting a unity with his lover based on the subject's will. The subject's effacement is represented as burning himself to death and in the term 'corporal punishment', and it has the purpose of attaining a complete love. Kenji expresses the real state of the subject's effacement as a jungle nightjar's flight into the heaven, even if it knows it will die, and Han describes it as the self-sacrifice of a ferryboat for a passer-by in the poem "A Ferryboat and a Passer-by". The sacrifice of the ferryboat is an absolute self-sacrifice taking the risk of its destiny. The self-denial and self-sacrifice presupposing the death of the subject is a process of the effacement of the subject as selflessness, and a new subject born from the state of complete selflessness is one subject equal in two subjects. Here the borderline between the subject and the other disappears. That is, the distance between I and Toshiko, and the distance between I and You disappears, and the other becomes the subject. In chapter 3 I trace the process and the meaning of the creation of a new subject in Miyazawa Kenji and Han Young-Un. Kenji escapes from the individual Toshiko and aspires after the whole; Han's union with You is the state of equality without any discrimination. The equality here refers to the state of absolute freedom, and it signifies the world of "neither one nor two" in the Buddhist sense. Based on this idea, Han took part in the movement of regaining the sovereignty of colonized Korea under social discrimination and of bringing the Korean people suffering from the oppression of Japanese imperialism back to their liberty and equality as new subjects. It has some bearing on Han's involvement with the movements of independence and Buddhist reform as a Buddhist monk's practice of redeeming mankind. Kenji also abandons the conventional self of Toshiko and I and aspires after the ultimate self of 'all mankind', which leads to his plunge in a movement for farmers in the province of Iwate as a devout Buddhist based on Mahayanist Buddhism. Meanwhile, for Kenji a bird is an emblem of salvation. It serves both as a medium crucial to overcoming sadness and conflict in belief after Toshiko's death and as a theme created going though Toshiko's death and antar?-bhava. It also plays a role in the connection to the heaven. Gold in Han Young's poetry is symbolic of eternity, as shown in the phrase 'the old firm and bright promise like the flower of gold' in Your Silence. As the speaker of A Flower Game says, 'the old promise' is the reason why 'I' am waiting for You. The old promise accompanied by the modifier 'the flower of gold' signifies eternal life, since a flower and gold are symbolic of life and eternity respectively. My study also investigates the ways in which Kenji and Han Young-Un were influenced by an indian poet Tagore, with a particular focus on his prose work The Realization of Life. Tagore's thought is based on brahman - a traditional indian thought - and Buddhist philosophy. Main themes in the poems of Kenji and Han are already mentioned in Tagore's themes such as 'the relationship between the individual and the universe", "the problem of self", and "fulfillment in love". In these themes Tagore sees the state in which the subject is divided as "Maya", that is, a fantasy, and mentions the fact that a self should be given up in order to accomplish a complete union of God and the self. This abandonment of self is self-denial and self-sacrifice, and it is aimed at attaining nirvana. Tagore states that since the self is one self in its union with God, the self separated from God is in the world of two selves, and that therefore it should proceed towards the world of one self united with God. This thought of Tagore's is not just limited to the inner world of human beings. He views an active self-sacrifice as aiming at the happiness of the whole world, that is, at a great love for the whole world in the sense of the universe. This can be said to have some relation to Kenji's and Han's struggle for a complete love through the social movements of people's salvation, specifically to Kenji's movement for rural areas and Han's for independence and Buddhist reform. The social movements in which the two poets were involved were a way of overcoming the modern period full of contradictions, and Mahayanist Buddhism was rooted in its spirit. What is important is that their struggle for human beings originated from the Buddhist spirit of sacrifice and that they always sided with ordinary human beings. And the two poets' struggle were intended to bring the rights of the ordinary human beings as subjects back to them. In conclusion, it can be said that Kenji and Han regarded the modern period, a period when Tagore said human beings were sold like fish, as an object which should be overcome, and saw a new period as one which human beings would recover their true selves as subjects.


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